ガーカガワ

妙晶さんの説法コラム「モラハラ上司編」

まんのう町にある慈泉寺僧侶・片岡妙晶さんの女性僧侶ならではの説法コラム。第6回目は、嫌な上司、苦手な人と角を立てず上手に付き合い、ストレスを貯めないヒントになるお話です。

 

〈体調不良〉

一昨年頃より、身体に異常が生じ始めた。

就寝中には必ず腓返りを起こし、しょっちゅう身体を攣るようになった。それも「運動中」など特別な時でなく、普通に歩いている時など急に起こるのだ。
「これはいよいよ三十路の峠か?」と思い、ストレッチを始めたり整体へ通ったりしたが、一向に良くなる気配がない。
これはどうしたものかと途方に暮れていたところ、体調の悪化へとある傾向があることに気付き、心療内科へ訪れた。
そこで事の次第を伝えたところ、ズバリ「あぁ、ストレスですね」と返された。
ストレスによって自律神経が乱れ、その影響から身体が緊張状態を起こし、問題が生じているのだそうだ。そんなことあるのね。

というわけで、その解決はもちろん「ストレスを無くすこと」だが、現代社会のおいてこれほど難しいものはない。
その原因が「仕事」に関することであれば、尚のこと。
「嫌なので辞めます」とはなかなかいかないし、そもそもなんで傷つけられた側が辞めにゃならんねん。

今回の原因となった人物は、医師曰く「モラハラ上司の典型」とのことだった。
相手の立場になって物事を考えることが出来ず、自己の言動を省みる能力に欠けていて、故に「自分は正しい」を曲げることが出来ないのだとか。

体調不良が生じる以前に、改善を伝えたことがある。
一度は「気を付けます」と返してきたもののその兆しはなく、いよいよ限界を迎え、改めて改善を要求した際「そんなつもりはない」と突っぱねられた。どころか、意見されたことに腹を立て、以後は対応がより悪化し、現在に至る。

なので、医師からも「相手に改善は期待しない方が良い。無理に上手くやろうとせず、距離を取りなさい」との指示を受けた。

正直「このまま放流しては新たなる被害者を産むだけだし、このあたりで改めさせるのが本人を含め幸せなんじゃないか」と思ったけれど、従ってみることにした。まぁ、身体もしんどかったし。

〈敵意〉

そもそも、此度の件がここまで発展してしまった要因の所在は何処か。

その一つは、私の「嫌悪感の表明」にあるのだろうと思う。

対象の人物は些か気配りに欠けるとはいえ、何も初めから敵意を持って接してきていたわけでは無い。
しかし、二度目の改善要求の際、私が明確な嫌悪感を向けてしまったが故に敵対へと転じさせてしまったのだろう。

人は聞くことで言葉を覚え、聞いた言葉しか発せないように、心もまた「他者の心」に応じて作用するものなのだ。
好かれれば愛しくなるし、嫌われれば疎ましくなる。向けた想いがそのまま我が身へ返ってくる。「天に唾する」とは上手く言ったものよ、そのまま自分にかかる。

だからこそ、和を重んじた日本人は出来る限り敵意を表面に出さないよう進化し、その結果が「本音と建前」文化なのだろう。
ゴハンの誘いも「あなたと食べるのは嫌です」と断るより「今日はちょっと用事があって…」とした方が角が立たない。

好ましく無い相手だからといってわざわざ敵対する必要はあらず、好きでも嫌いでも無い中道を歩むこともまた一択なのだ。
そうして、良いところは好み、合わないところは嫌ったままで、相容れずとも隣り合って生きて行ける曖昧さは人間の持つ良さなのかも知れない。

その為の手段として重要なのが「聞」ということなのだろうが、これもまた此度の問題に欠けていた要因の一つだろう。

〈思い込み〉

モラハラを含む「ハラスメント」と呼ばれる行いの根底には、少なからず驕りの心があるのではと思う。
普通であればしないであろう己の考えや価値観の押し付け・強要も「自分が正しい」という思い込みが有ると、さも当然かの如く行われてしまう。戦場で大義名分を手にしたら人を殺せてしまう現象にも近いだろう。

恐ろしいことに、現代において人間社会で一番力を持つのはそんな「思い込み」なのだ。

自身の行いによって不意に他者を傷付けてしまった際、普通であれば少なからずの罪悪感と謝意を抱くだろう。人間に共感能力がある以上、他者を傷付けることは誰にとっても気分の良いことでは無いからだ。
しかし、そこに「思い込み」が付随するだけで状況は一変する。自身の行いによって他者が傷付こうが苦しもうが、そんな悲鳴はまるで無いかのように聞こえなくなってしまうのだ。

〈聞〉

此度の上司も、「正論を振り翳す」人間であった。
自分の言いたいことを一方的に長文で送りつける癖があり、それが自分の中で「正解」になっていた。

故に、そのチームは「上司の能力以上」の結果を出すことはなかった。
人と人とが協力する利点は「一人では出来ないこと」を可能にすることだが、しかしそれは「聞く」心あってのもの。聞くことがなければ、相手の能力や人柄を知ることはできない。知ることが出来なければ、何かを任せたり頼ることも難しいだろう。
衆をまとめる人間に必要なのは、自分が有能であることではなく「他者を知り委ねる」覚悟なのだ。
自分には無い考えや能力を受け入れ、そんな他者たちが力を発揮することのできる環境作りこそが上司の仕事なのだろう。

しかし、「聞く」ことは私たちの思うより難しい。

件の上司は「自分は他者に対して理解がある人間だ」と、よく自分で語っていた。
実は、それこそが仏門で言うところの「煩悩」で「聞けていない」証だったのだ。
他者理解は「自分は他者のことを知らない」という「無知の知」から始まる。当たり前だが、「知っている」ものにわざわざ耳を傾けようという人はおらず、何よりも先ずは「知ろう」という意思を自らに抱かせることが肝心なのだ。

〈聞即信〉

だからこそ、真宗では「聞即信(聞くこと即ち信心也)」を説いた。

「信心」とは仏心のことで、それが我が身に届くことを真宗では「救い」と呼ぶ。
その信心とは「聞」のことであり、信心の届いたものは「聞く」ことが叶うようになる。それによって他者との要らぬ衝突や苦悩を避けることが出来るようになり、引いては「安心」に繋がるのだ。

という、現実的な教えである。

「仏心」「信心」に引っかかる人も多いとは思うが、ここで大切なのは「自分は聞く耳を獲た」と腑に落とすことで、正直そこはあんまり問題ではない。「聞く耳を塞ぐ」のが思い込みなら、開く術もまた「思い込み」なのだ。

人間である以上、どんなに時代がかわろうとも他者と関わらずに済む世の中は来ないだろう。

然れば、その関わりを出来る限り良いものへ。
「すべての悩みは対人関係の悩みである」とアドラーは語ったが、だからこその「よろこび」もまた確かに存在するのだ。

人間同士の争いは、「敵視」するところから始まる。

だから、多少相容れないことがあっても、その心を敵意に変えてぶつけることは避けましょう。
距離を測り、本音と建前を使い分け、お互いが無理なく在れるように工夫をしましょう。
皆と手を取り合えなくて大丈夫、拳さえ握らなければ良いのです。

しかし、どれだけ気を付けようと争いは起きてしまうだろう。
けれど、私たちは争ったとしても「仲直り」することが叶う存在だ。
お互いの言い分を聞き合い、納得はできなくとも「理解」は出来る。そうすれば、「妥協点」を見つけることが出来るだろう。

私たちは信心を頂いたところで、仏様になれるわけじゃあない。

そんな私達が目指すべきは「万人とおてて繋いで仲良しこよし」ではなく、相容れない人と「争わない」努力なのかもしれない。

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